児島宮歴研会による調査報告


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[28] 母系制坊門中納言親信女 坊門局 Name:児島宮歴研会 Date:2009/04/28(火) 10:58 [ 返信 ]
母系制
70代一條天皇室藤原彰子(藤原道長の娘)─第3皇子後朱雀天皇(ごすざくてんのう)室禎子内親王(ていしないしんのう)─第71代後三条天皇名を尊仁といいはわずか四年半の在位で、貞仁親王(白河天皇)に譲
位後三条天皇の第四皇女は堀河天皇室となる─鳥羽天皇
堀河天皇室篤子内親王後三条天皇の第四皇女
堀河天皇─鳥羽天皇の第4子─後白河天皇母は待賢門院中宮:藤原 璋子

後白河天皇─高倉天皇─後鳥羽天皇―頼仁親王─東寺道乗─頼宴僧正

後白河上皇――高倉天皇
‖――後鳥羽天皇――頼仁親王(児島宮)
坊門信隆――+殖子

+坊門信清――女

+実朝――児島宮後継になるがあえなく

頼朝――+頼家――公暁

頼仁親王が児島宮といったので、それで姓が児島になられた由来

児島高徳ー高光─正綱─正光ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安ー甚九郎朝次弥平次ー甚九郎佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成ー甚九郎岩蔵ー甚九郎弥蔵ー甚九郎弥平ー甚九郎喜平ー甚九郎文八ー甚九郎某ー


[29] 坊門中納言親信女 坊門局 Name:児島宮歴研会 Date:2009/04/28(火) 11:00
坊門信清の女・坊門局)鎌倉3代将軍実朝正室の姉妹です。
坊門局(範兼の孫、範光の女光子、按察典侍という)
坊門局(藤原公能の娘) 皇女(母・坊門局)
親王宣下」とは、もともと二世王(天皇の孫)であった「世襲親王家」の歴代当主は本来
なら天皇の実子しか名乗れなかった宮人:母(坊門局)頼仁親王長男道乗「宮家」 父:
内大臣 藤原(坊門)信清頼仁親王(姉)鎌倉3代将軍源実朝室
坊門局 内大臣 坊門信清 の女1196〜1249 仁和寺 御室 道助入道親王 (長仁親王)
1200〜1273 嘉陽門院 礼子内親王 (土御門・順徳天皇 斎院 ) 1201〜1264 頼仁親王(
承久の乱後備前へ配流)

吾妻鏡建久7年坊門中納言知行一国 坊門中納言親信
嫡男修理大夫たり。二
 男また丹後を任ず。一家素餐を以て生と為す。今此の如き部禄、
臣抽身すべきの秋か。 悲しむべし

11月7日 [筑後和田文書]
**前右大将家政所下文案
 前の右大将家政所下す 和泉の国御家人等
 早く左衛門の尉平義連の催促に随い大内大番を勤仕すべき事
 右、御家人等、彼の義連の催促に随い、懈怠無く大内大番役を
 勤仕すべきの状、仰せ の所件の如し。以て下す。
 建久七年十一月七日 案主清
 令大蔵丞藤原印 知家事中原
 別当兵庫頭中原朝臣印
 散位藤原朝臣印

.平兼盛集〔坊門局筆 藤原俊成・定家加筆 〕
源順集(坊門局筆、藤原定家加筆 平安時代後期写 時雨亭文庫蔵、)
元輔集(坊門局筆、藤原定家加筆 平安時代後期写)
後白川院の近習者に、坊門中納言親信と(有朋上P177)云人、御座
けり、右京大夫信輔朝臣の子也。彼信輔武蔵守たりし時、当国に下り
て儲たりけるが、元服して叙爵し給たりければ、異名に坂東大夫と申
けるが、兵衛佐に成たりけるにも、猶坂東兵衛など申ける
「坊門前中納言殿」は平忠世〔経親の兄.?〜1291〕
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tsuchiya-megumi-azumakudari.htm
忠世は後深草院〔1243〜1304.62歳〕に仕えていたこと
から、文中の「叡覧」や「聖断」は後深草院のものと知られる。
親玄は醍醐寺僧定任との相論について、後深草院の命を仰ぐべく
申状を提出したのである。これによれば、「去々年比」すなわち
正応元年〔1288〕頃から親玄は院に召されて、「御祈祷」を
奉仕したことが知られる

貞和元年( 1345 )十一月十二日の足利尊氏寄進状に「錦織東郷」とみ
え、地頭職が竹生島権現に寄進されており、正平八年( 1353 )二月に
は南朝方の坊門中納言からも祈祷料所と
して安堵されている。 文和五年(1356)二月十三日の奈良興福寺法印
公憲書状

成親は、坊門局を妻にする以前、後白河院京極を妻にしていた。
後白河院京極も父親は俊成であり、母は歌人藤原為忠女であった
から、後
白河院京極と坊門局は異腹の姉妹の関係にあった。成親と後白河院
京極の子のうち、第二女は建春門院に仕え「新大納言局」と呼ばれ
恵まれた宮仕
え生活を送るが(5)、夫平維盛が寿永三年(一一八四)三月二十
八日に二十七歳で那智において入水による非業の
死を遂げた(6)といわれてからは、いくどか人生の岐路に立たさ
れたことがある(7)。
 坊門局にとって定家は、異腹の弟であった。応保二年(一一六二)
に誕生した定家は、近衛天皇の母后美福門院に仕えて美福門院加賀
と呼ばれた
人が母で、若狭守藤原親忠所生の女であった。定家は、坊門局筆の
『唯心房集』に「八条院坊門局 下 官 大 姉所書写也」と識語
しているが、
そこには坊門局を「大姉」と記している。坊門局と定家の年齢差が何歳
だったか正確なことは判らないが、定家は同腹の姉八条院三条について
『明月記』正治元年九月二十日条に「傳聞、五條上出家云々、
予同胞大姉也」と記し、「大姉」という言い方をしている。この大姉
八条院三条は、『明月記』正治二年三月九日条に「中陰如夢過了、
予十四年之姉也」と記されるように、定家より十四歳ほど年長であった。
「大姉」と記された八条院
三条が定家より十四歳年長であったことを勘案すると、同じく「大姉」
と識語された坊門局もかなり年長であったと見てよいであろう。
俊成の第一
子と目されるのは九条三位忠子家女房(8)腹の興福寺権別当大僧
都覚弁で、正治元年(一一九九)十一月二十七日に六十八歳で入滅
したので(9)、俊成十九歳の長承元年(一一三二)に誕生した
ことになる。定家とは三十歳も年齢のひらきがある。この頃に俊成
は叔父顕良の女を妻にし、坊門局を儲けたたものと考量される。
いま仮に坊門局の出生を遅らせて保延六年(一一四〇)生れで算出
したとしても、定家より二十二歳年長になる。従って、断定はでき
ないけれども、姉坊門局と弟定家の年齢差は、二十歳を優に越えて
いたと見ていいであろう。なお、定家は、正治年間に、異母姉
であった坊門局宅を頻繁に訪れている。坊門局の年齢はすでに六十代
であったと推定されるが、『明月記』同二年三月十三日条に「秉燭以
後向坊門、彼尼上病悩給之由聞之、仍参、但非殊事歟」とあるように、
定家は尼になっていた坊門局が病気で臥せりがちであったのをとかく
案じていた。『明月記』同年七月十七日条に「心神甚不快、不似例
人々間、坊門事忘却、不問安否、尤不便」とあるように、定家が多
忙と心身疲労で坊門局を訪うことが叶わぬ時もあったが、坊門局晩年
の安否をいつも気にかけていたことが窺える。
http://www.daito.ac.jp/~hama/motosukerei.html#in02
『御子左系図』。同系図には「八条院坊門局、母民部少輔顕良女、
六条院宣旨、応保・長寛之比為成親卿妻、生子四人、其時猶院召仕、
離別
 之後猶候院、仁安以後治承以前只一人召仕、御幸毎度参御車」
とある。但し、同系図の「仁安以後治承以前只一人召仕、御幸毎度
参御車」という記事は、俄には信じ難い。『明月記』嘉禄二年十二
月十八日条に、後白河院に注して、「母為忠朝臣女、自仁安至于治承
、唯一人祇候、乗御
 車後、近習奏者無余人……」という記事があるので、おそらく、
『御子左系図』では後白河院京極に関する注記を誤って八条院坊門局
に書き込んでしまったものと推測される。

坊門家・高倉家など後鳥羽院近臣に知行国が集中
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/endo/chigyo/kamakura-koki-chigyokoku.htm平滋子 ‖
 (建春門院) ‖
 ‖―――――――高倉天皇
 ‖ ‖―――――後鳥羽天皇
 ‖ ‖
 ‖ 坊門信隆――藤原殖子
 ‖(修理大夫)(七条院)
 ‖
 後白河天皇 +―以仁王
 ‖ |(高倉宮)
 ‖ |
 ‖―――――+―式子内親王
 高倉成子
 (三位)

藤原憲子(藤原範光娘岡前別当三位),平棟子(平棟範娘輔三位) ... 母、
坊門信隆娘
藤原殖子] 治承3年(1179)2月、誕生。平知盛が養育し、寿永2年


[30] RE:母系制坊門中納言親信女 坊門局 Name:児島宮歴研会 Date:2009/04/28(火) 11:03
(1183)7/25、都落ち。
先の一条・坊門家をはじめ頼朝の生家たる熱田大宮司家、さらに源氏
一族の大内氏等に加えて、比企の乱に連座して殺された相模の粕屋一
族、和田合戦に生き残った義盛の子の朝盛まで、北条執権政権の確立
過程で排除された者たちが京側として参戦してきた。さらに、三浦義
村の弟胤義まで院方に加わっていた。先に頼家を父とする妻の連れ子
禅暁を鎌倉殿候補として送り出したが、候補からはずされたばかりで
なく、源氏嫡流の血を引くことが危険視され、一ヶ月前に義時の指図
によって京都東山のあたりで殺されていた。三浦胤義はこれを深く恨
み、在京のまま院方へ味方したのである。
□ 無論、宣旨が届いても従わなかった御家人もいた。妹の伊賀局が
執権北条義時の後妻に入っていた京都守護の伊賀光季である。三寅
の祖父の右大将西園寺公経から、様子がおかしいから御召があって
も参院するなと使者が届いていた。光季は直ちに鎌倉へ使者を走ら
せる。光季はすでに合戦を覚悟していた。果たせるかな、翌日、
院方の八百騎が光季の邸へ押し寄せ、光季親子以下二十数人の郎従
はこれを相手に奮戦、館に火をかけて自害した。 伊賀光季の使者が
鎌倉の御所に転がり込んだとき、坂東の御家人たちにも倒幕の宣旨
が届いていた。尼将軍政子の有名な演説はこの時のことである。頼朝
以来鎌倉三代の「御恩」に報いるのは今この時しかない。政子の演説
は、かつて草深い坂東からに立ち上がった時を思い出させ、一も二も
なく御家人たちの幕府への忠誠を取り付けることに成功した。北条義
時と隠微な権力闘争を続けていた三浦義村も、この時ばかりは、院方
へついた弟胤義を見捨てて義時に協力した。

□ その日の夕刻には作戦会議が開かれた。しかし、坂東武者が院宣
に逆らって戦うのは稀である。そのため京都の進撃を受けて箱根・
足柄峠で戦うなら大義名分が立つ、という消極的な迎撃戦が大勢を
占めた。これに反対したのは意外にも文官の大江広元であった。
京都の出方を周知している広元は、直ちに出撃すべしと主張した。
さすれば、院宣に動揺している御家人たちも後に続くはずであると。

□ 結局、会議は断然出撃に決定、遠江・信濃以東の東国十五カ国
に動員令が出され、東海・東山・北陸三道に分かれて総勢十九万騎
が、執権義時の長子泰時を総大将として京へ押し寄せた。しかし
西国と東国の正面衝突は、宣旨が出されて一ヶ月、いささかあっけ
ないくらい西国の全面的な敗北に終わった。

□ 西国の武士たちは家屋敷を焼かれて逃走、院の御所へ戻って
くると、門はかたく閉ざされ、武士どもは何れかなりと落ちて行け
、と追い立てられる始末であった。
後鳥羽の皇子の六条宮・冷泉宮も但馬・備前国へ流された。さらに
、この四月に即位したばかりで在位七十余日の仲恭天皇も廃され、
後鳥羽の兄ですでに入道していた行助親王を法王に据えて高倉院
とし、その皇子茂仁親王を後堀川天皇として即位させた。皇位に
ついたことのない高倉院の院政という異常事態である。院方の
公家は殺されたり流罪・免職・謹慎などの処分があり、味方した
武士の大半は斬罪にされた。かつて史上有得なかった三上皇配流
と幕府の皇位介入はこうして始った。
執権北条義時の急死は、承久の乱からちょうど三年目の元仁元年
(1224)六月十三日である。死因に異説があった。義時の急死によ
って執権職の後継者選びが急がれた。衆目の一致するところ、
義時の嫡男で六波羅探題の泰時が有力候補であったから、急の報
せで鎌倉に帰ってみると、思わぬ陰謀が待ち受けていた。

□ 義時の後妻の伊賀局が実兄の光宗と謀り、実子の政村を執権
に、娘婿の一条実雅を将軍に立てようとしていたのである。伊賀
光宗と伊賀局は承久の乱に先立って後鳥羽院の軍勢に攻められて
奮戦自決した伊賀光季の兄妹であり、一条実雅は二位法印尊長の
実弟であった。伊賀局が夫の義時を毒殺したとすれば、尊長はそ
の秘密を容易に知り得る立場にあったばかりでなく、陰で操って
いた可能性すらある。

□ しかも、この伊賀氏の陰謀に三浦義村まで抱き込まれていたが
、尼将軍政子が自ら乗り出して義村を説得してしまったため 、
陰謀は未遂に終わった。 伊賀局・光宗・実雅の三人が流罪にさ
れ、北条泰時が執権となった。

ここに記している系図は天王の系図

天皇系譜 ☆桓武天皇光仁天皇の第1皇子
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/kanmu.html
室乙牟漏(桓武天皇皇后・平城嵯峨母)
藤原朝臣宿奈麻呂 ふじわらのあそみすくなまろ. 生没年 716(霊亀2)〜777(宝亀8);
系譜など 宇合の子。藤原北家
☆嵯峨天皇
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-heian/saga-tenno.htm
☆仁明(にんみょう)天皇
☆光孝天皇
☆宇多天皇
☆醍醐天皇
☆村上(むらかみ)天皇
第64代 円融(えんゆう)天皇
http://inoues.net/tenno/enyu_tenno.html☆一條天皇
☆後朱雀天皇

☆一条天皇
☆後朱雀天皇

☆一条天皇
☆白河天皇

☆堀河天皇
☆鳥羽天皇

☆第4子後白河天皇高倉(たかくら)天皇
http://inoues.net/tenno/6jyo_takakura.html桓武天皇、母は藤原良継の娘・乙牟漏で加美能(かみの)─嵯峨天皇 第2皇子仁明
─仁明天皇仁明天皇が改めて(梅 or 桜を)植えた橘嘉智子(たちばなのかちこ)─第58代光孝天皇.御母,尊称皇太后班子女王.
─宇多天皇の第1皇子,母は内大臣藤原高藤の女,藤原胤子 天皇の諡号や追号は通常死後におくられるもの
醍醐にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていた。これを遺諡という60醍醐―62村上の子たちが後を継ぐ63冷泉――65花山
─64円融院法皇円融院法皇が亡くなり、紫野で葬儀を行った



  



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